水色あひるblog

はてなダイアリー 「mizuiro_ahiruの日記」 から引っ越しました。

迷惑アレルギー

花粉症などのアレルギーが発症する理由は未だ不明だそうですが、「衛生仮説」という「清潔すぎるからアレルギーが起きるのではないか」説があります。つまり、ヒトの免疫システムは十万年・百万年の長きにわたって病原菌など凶悪な敵と戦い続けてきました。撃退してもしても、侵入者が途絶えることはありません。それがここ百年ほどで急激に社会は清潔になり、病原菌の侵入も激減しました。でも免疫システムはそんな事情を知らないので、「敵がいない」という状況が信じられません。侵入者が見当たらないのは、自分たちが見落としているのかもしれないと考えて身体中を探し回り、結果、スギ花粉のような戦う必要のないモノを相手に「コイツ敵じゃね?」「そうだ、きっと侵入者だ」「みんな集まれ戦争だ!」となって無限に鼻水を垂れ流すことになる、というものです。
この仮説のやっかいな点は、仮に杉の木を全部切り倒して空気中のスギ花粉をゼロにしても、免疫システムはまた次の「敵」を見つけてしまい戦争を始めるので、アレルギーはなくならないかもしれない、という事です。

社会的なアレルギー

「迷惑」は、これに似た社会的なアレルギーのように思えます。
太古の昔にヒトが群れを築いて以降、迷惑はずっとありました。略奪、暴行、詐欺、隣の部族との殺し合いなどなど。社会が成熟して深刻な迷惑を減らしても、ヒトの脳のどこかに「迷惑は存在するはず」というプログラムがあり、迷惑を探してしまうのかもしれません。
人前での喫煙が日本で追放され始めたのは70年代。「嫌煙権」という言葉が提唱されたのが1978年だそうなので、その辺からです。田畑に堆肥がまかれ、家々の便所が汲み取り式で糞尿の臭いが漂っていた頃、あるいは工場が真っ黒な煤まみれの煙を吐き出していた頃には、タバコの煙は迷惑ではなかった。もっと臭いモノがあったからです。化学肥料・水洗トイレ・公害防止設備の普及が空気を清浄にした結果、「残された」タバコが新・迷惑に格上げされるわけです。
タバコを社会から追放しても迷惑はなくなりません。エスカレーターに乗る時は急いでいる人の為に右をあけるべきで、右側に立つのは迷惑。電車内で化粧する人もベビーカーを持ち込むのも迷惑。迷惑を駆逐する度に、次はもっと些細なことが新・迷惑に繰り上がります。際限なく。
不快なモノとして加齢臭が、タバコの煙と入れ替わるように浮上してきたのは偶然ではないでしょう。ちなみに加齢臭という言葉は資生堂が2001年に作ったものだそうで、それまで中高年男性の体臭に名前などなかった。無名なのは、その存在の認識が希薄だったからでしょう。

隔離車両

ともあれ、仮に化粧やベビーカーを追放しても混雑する電車から迷惑はなくならない訳です。次は、迷惑だから加齢臭のする男は電車に乗るな。まぁ乗らない訳にはいかないので「37歳以上男性専用車両」に乗れ、となるかもしれません。
加齢臭を隔離した次は、新聞・雑誌を広げられるのが迷惑だから、混雑した車内で持っていいのは5インチクラスのスマホまで。いや、8インチタブレットまでは認めるべきだ。それは大きすぎるだろ。ふざけるな、9.7インチのiPadAirまではOKだろ論争。その次は、他人の吐息が迷惑だから全員残らずマスクを着用し、吐く息が他人に直接かからないようにしろ、とか。
どんどん病的な迷惑アレルギーが過敏化、進行していきそう。迷惑の飽くなき追放は不寛容の無限強化となって、社会がギスギスしていきます。個人的にはベビーカーが邪魔という時点ですでに、鼻粘膜にとりついた花粉を追い出さないと気が済まないのと同じくらい過剰反応に思えますが。
もうそろそろ、「迷惑」と判定される対象の些細化を止める方がよい気がします。

社会的な対アレルギー療法

本物のアレルギーに「アレルゲン免疫療法」というものがあります。アレルギーの原因となる物質を徐々に身体に与えて抵抗力をつけて、アレルギーを克服していく療法です。
迷惑も同様ではないでしょうか。ベビーカーに寛容に接し、車内の化粧程度は生暖かい目で見る。中高年男性は古来、特有の臭気を発するもので、その辺は長い人生を考えればお互い様で仕方ない。まぁ紙の新聞は追放しても構わない気がしますが、いや…それは冗談で。ベビーカーや加齢臭を受け入れ慣れていくことで、迷惑か迷惑じゃないかの「戦線」をそこに固定し、もっと些細な迷惑に批判の戦場が移動するのを食い止める、というものです。どうでしょう。