最低賃金の上げ下げで貧困はなくならない
「最低賃金を上げるべき」派と「いやいや、それは逆効果でしょ」派の論争は尽きることがありませんが、私は「上げても下げても、日本では貧困解決にならないでしょ」派です。悲観的な理由を書いてみます。
最低賃金が変えるもの
最低賃金を上げると、雇用されている人の収入は増えますが、それと引き換えに企業は収益が悪化し雇用を絞るので失業が増えます。逆に最低賃金を下げると、企業は安く人を雇えるので失業は減りますが、引き換えに働いてもまともな生活ができないワーキングプアな人が増えます。
最低賃金の上げ下げはメリットデメリットのトレードオフになっています。「失業を増やす」か「ワープアを増やす」か、という「貧困のタイプ」を入れ替える力はあっても、貧困をなくす力はないのです。
ミクロ経済学の教科書的には「最低賃金は失業という非効率を生むので無い方が良い」と書かれていたりしますが、あくまで最低賃金の廃止は「非効率」をなくす、のであって「貧困」をなくすとは言っていないので注意が必要です*1。
経済成長や生産性の向上こそ貧困をなくすとも言われますが、それは必要条件であって十分条件ではありません。たとえば2014年アメリカの一人当たりGDPは54,596ドルで、日本(36,331ドル)のちょうど1.5倍あります。が、アメリカで貧困がなくなったという話を聞いたことがありませんので、日本人が頑張ってこれからGDPを1.5倍に増やしても、トリクルダウンで貧困がなくなることはないと予想できます。ましてアベノミクス第二幕で目標とされるGDP600兆円=現状比1.2倍ごときを実現しても貧困は消えません。まぁ実現しそうにないし。
経済成長が重要なのは、それが貧困解決に必要な再分配を可能にするからです。アメリカでは、もしアメリカ人がその気になれば貧困を相当に緩和できるはずで、それは国の中に富が充満しているからです。アフリカの貧しい国々や北朝鮮でそれができないのは、国のどこにもロクに富がないためです。
再分配。
剥き出しのドイツ、剥き出しのフランス
再分配について考えます。下図1は2009年の相対的貧困率(OECDから15か国をピックアップ)で、日本はかなり高い(悪い)位置にいます。
日本より下の方にあるドイツ・ベルギー・アイルランド・フランスなどの諸国は、貧困率が低くていいなぁと羨ましく思いますが、ここで下図2を見て下さい。こちらは社会保障など政府による再分配を行う前の相対的貧困率です(赤い枠線グラフが再分配前。水色の塗りつぶしグラフは再分配後(=図1)。図1と図2では横軸の数値が違い、縦軸は国の順番が異なり、再分配前の悪い順です)。
再分配前の貧困率を見ると、ドイツ・ベルギーは日本とほぼ同水準。アイルランド・フランスは日本より悪いとわかります。こうした国々も、「剥き出しの資本主義」状態では日本同様 or 日本以上に貧困は厳しい。図1の貧困率が日本よりも穏やかなのは、積極的に再配分を行い、貧困を緩和した成果です。
日本は再分配が弱く、結果として厳しい貧困が残されている国です。どんな再分配が必要でしょうか。
働けるのに働いていない人に給付を、働いている人にも給付を
最低賃金を引き上げた時に必要なのは「働けるのに働いていない人」への再分配です。
企業が雇用を絞ると、昨日まで元気に働いていた人が失業します。なので、働く意欲も能力も健康もある人もセーフティネットで救う対象に含める必要があります。タテマエとしては、日本では生活保護がそれに当たります。働ける人に生活保護を出せないことはありません。
しかし現実には、なかなか困難です。役所に申請に行っても「補足性の原則」から、先に稼働能力を行使すべきとして「あなたはまだ現役年齢で元気なんだから働けるでしょ。仕事探しなさいよ」と水際作戦が発動され追い返されてしまいます。
こうした運用が行われている状況で最低賃金を引き上げると、事態は深刻化します。雇用が不足しているということは、いわば椅子取りゲームのプレイヤーよりイスが少ない状況なので、どれほど努力しても全員が雇用されることは無く、「仕事探せ」で追い返せば誰かは餓死してしまいます。
逆に最低賃金を下げた時、必要なのは「働いている人」への再分配です。
働いた収入では生活できないワーキングプアが量産されますから、給与に上乗せする援助が必要です。例えば負の所得税、といった考え方がこれに適合しています。負の所得税を超雑に描くと、図3のようになります。青線が元の所得、赤線が税引き後の所得です。
所得がX円以上の人は所得の一部を税として支払う(青矢印)。これは今と同じ。X円以下の人は現状では、所得控除の結果「税を払わない」になりますが、税金ゼロ円でも貧困であることは改善されないので、逆に「お金を受け取る(税がマイナスになる=赤矢印)」。月収0円の人は(例えば)月12万円税金を受け取り、月収が上がるにつれ受取金が減っていくような仕組みで、これを現実化したものがアメリカの「給付付き勤労所得税額控除」など諸外国の制度です(もちろん給付のありかたは図3より複雑です)。日本にこうした制度はありません。
それに代わるものが、日本では生活保護です。生活保護は無所得の人だけでなく、低所得の人も不足分だけ受給できます。できるはずです。つまり、単身者の生活保護が月12万とすると、月収10万の人は2万円だけ生活保護をもらえるのです。しかし、現実はそれもやはり難しい。
2010年に厚労省が「生活保護基準未満の低所得世帯の推計」というものを発表したことがあります。2004年の「全国消費実態調査(総務省)」のデータを基にした推計では「最低生活費を下回る費用で暮らし、資産もないのに保護を受けていない家庭は約45万世帯」*2となり、2007年の「国民生活基礎調査(厚労省)」のデータで推計すると「全国に低所得世帯は337万世帯あり、このうち68%にあたる229万世帯は生活保護を受給できる可能性があるにもかかわらず、していないとみられる」*3となっています。
生活保護を下回る生活をしている家庭が、45万世帯かもしれないし229万世帯かもしれないとは、国内の貧困を政府が正確には把握もしていないという怖い話ですが、いずれにせよ、生活保護制度は貧しい家庭に十分届いていません。理屈からすれば、不足分だけの生活保護給付が完全に機能していれば、日本に「生活保護未満の世帯」は存在しないはずなのですが、現実は程遠い。このすべての人たちが受給すべきだ、と私は思うのですが、世論はむしろ「生活保護以下で我慢して働いている人がいるのに、生活保護を受給している人たちは甘えている」と批判する人もいます。
こうした運用が行われている状況で最低賃金を引き下げると、事態は深刻化します。「生活保護未満世帯」というワープア世帯を更に増加させることになります。
厳しいのは政府でなく国民
なぜ日本の再分配は機能しないのでしょうか?
立法による制度の不足、行政による運用の歪みなどもありますが、突き詰めれば「国民が再分配を支持していない」に行きつくと思います。国民が再分配を支持していれば、役所窓口での水際作戦などは批判を浴びて解消され、給付付き税額控除も法案提出されるはずです。解消されないのは、「社会保障を積極的に出すな。生活保護などむしろ減らせ」と言う世論の後押しがあればこそです。
長々と書きましたが、冒頭に挙げた私の結論をもう一度書くと、こうなります。
最低賃金を上げるにせよ下げるにせよ、その欠点をカバーする再分配が必要になる。国民がそれを支持せず、「貧困は自己責任」「生活保護は甘え」と突き放している限り、最低賃金を上げても下げても、貧困はなくならない。
補足
「働ける人にも給付」vs「働いている人にも給付」はどちらか一方で良い訳ではなく、どのような経済情勢でも両方必要です。
例えば最低時給を1500円にすれば月160時間労働で月収24万円になりますが、健康上の制約等でフルタイムワークできない人もいます。短時間しか働けない人がいる以上、どんなに高い時給設定でもワープアは発生するのが現実です。逆に、最低賃金を下げて求人が増えても、需給のアンマッチによる失業は必ずあります。
現実の経済は複雑なので、様々なセーフティネットのラインアップを揃える必要があります。
逆に、良く考えられたセーフティネットが網羅されていれば、最低賃金引き上げに挑戦しやすくなります。
経済情勢が良ければ、ごくわずかな失業発生と引き換えに多くの労働者が賃金アップを獲得できるかもしれません。「ごくわずかな失業者」がセーフティネットでカバーされていれば、全体として利得が勝ります*4。もし、予想外に弊害が(失業が)多発しても、その人たちがセーフティネットで救われていれば善後策を冷静に検討できます。賃下げで雇用回復させるのか、そうはせず、高い最低賃金に耐えられない生産性の低い産業を淘汰し、失業者は生産性の高い産業に移すべく職業訓練に注力するのか。などのように。
セーフティネット不在では、少数の失業者を見殺しにするか、予想外の失業大発生で社会不安が生じてパニックになるか、になります。
参考資料
2014年の一人当たりGDPについては→「世界経済のネタ帳」から引用
再分配前後の相対的貧困率の各国データは→一橋大学の小塩教授が内閣府・第14回税制調査会に提出した「所得格差・貧困・再分配政策」という資料(pdf注意)のp.14に掲載さていたOECD2009年相対的貧困率データからの孫引き
生活保護の水際作戦については→SYNODOS「生活保護の水際作戦事例を検証する 大西連/自立生活サポートセンター・もやい」や、BLOGOS「生活保護申請の女性に「ソープで働け!」という対応 大阪市だけでなく「氷山の一角」」など
厚労省の「生活保護基準未満の低所得世帯の推計」はコチラ(pdf注意)
「生活保護基準未満の低所得世帯の推計」に関する毎日新聞と読売新聞の記事はリンク切れで、blog「土佐のまつりごと」のエントリー「生活保護基準以下の所得 700万世帯 厚労省調査」を参照しました。
*1:ついでに言えば、最低賃金廃止が非効率をなくす、という記述自体が誤解を招くというか間違っており、最低賃金設定は必要だと私は思いますが、それはまた別の話なので、今日は割愛。
*3:読売新聞の記事を一部省略して引用
*4:例えば年収200万円の労働者が10人いる状況で、最低賃金を上げて年収230万円になったのと引き換えに、10人中一人が失業したとします。賃金総額は2000万円から2070万円に上がっているので、働いている9人から20万円ずつ税金を取って失業者に給付すると生活保護180万円で、働いている人は手取り210万円になるので、許容できる痛みで全体としては改善しているのではないか、と私は思います。