水色あひるblog

はてなダイアリー 「mizuiro_ahiruの日記」 から引っ越しました。

長寿が幸福だなんて、誰が決めた!

このエントリーの目的は、人間60歳とかある年齢に達すれば自発的に自殺する権利を認めてもいいんじゃないの?、という主張に理解を得ることです。

step.1:長生きは「どこまでも」幸福か?

長生きすることが幸福かどうかは、長生きできなかった場合との比較で判断できる思います。下のグラフは1930年(昭和5年)の日本の人口ピラミッドです。人類が長い間続けてきた多産多死型になっています。

これを見ると、ついこの間まで、人間は生まれた時から毎年毎年どんどん死んで減っていた事が分かります。一年一年のデコボコをならした滑らかなカーブを想像しておおざっぱに見ると、出生数の1/3は20歳までに死に、20歳時点の生存者の半分は45歳頃までに死んでいます。つまり45歳まで生きる人は生まれた数の僅か1/3。65歳の人口は45歳の更に半分程度(生存率は1/6)。70歳の人口は出生数の1/10程度しかいません。60代で長生き、70代はスゴク長生きです。
この時代、長生きできなかった、というのは単に50代あたりで死ぬ事でなく、20歳を迎えられずに死んだ多くの子供たち、30代・40代で死んだ人をも含めた言葉です。
とりあえず、ある程度は生き延びて40代50代で死んだ人の事を考えても、「長男が成人する前に死んだ」「末っ子がまだ幼児のうちに死んだ」「娘の結婚を見届けられなかった」「孫の顔が見られなかった」人が大勢います。60代まで生きれば、そのへんの人生イベントは大体済ませる事ができるでしょう。確かに長生きが幸福だと言えます。
でもそれは、正確に言えば「40代で死ぬより60代で死ぬ方が幸福だ」ということです。このモノサシをそのまま、「60代で死ぬより80代が幸福」「80代より100歳」と無制限に伸ばしていいのでしょうか?。
現代の人生を考えると、60代あたりから老いのリスクが目立って増えてきます。脳梗塞などを起こして半身不随や寝たきりになるリスク。癌になり、苦痛を伴う治療を長期間行いながら結局治癒せず死亡するリスク。更に、認知症になり正常な判断が出来ない状態で生き続けるリスクなど。これらのリスクは加齢とともに加速度的に増大します。
ある年齢を超えると、長生きによって追加的に得られる幸福より上記のようなリスクの増大が勝り、差し引き幸福度が下がっていくのではないでしょうか。下の図のようなイメージです。

加齢とともに増大していた幸福度が60代に入ると伸びが鈍り、70歳程度でピークアウトしています。
これはもちろん私個人の価値観で、決して「全ての人の幸福度が70歳でピークになって以降は低下する」と主張するものではありません。価値観は人それぞれ自由で、「80歳でも90歳でも長生きするほど幸福度は増す。曾孫玄孫の顔まで我が目で見て、百で往生するのが最大幸福だ」という価値観もあるでしょう。だからこそ、私の「70歳あたりでピーク」という価値観の自由も認めて欲しいのです。
「全ての人にとって長生きは幸福」というのは、「長生き」の定義が60代程度だった時代の話であり、そこを超越した超高齢については価値観にばらつき・人による相違があってもいいのではないでしょうか。先に挙げたようなリスクが身に降りかかるのは不幸であり、それを事前に回避したいと考える価値観も何らおかしくないのではないでしょうか。

step.2:死ぬまで生きるべきなのか?・元気なうちに死にたい

前節で、長寿が無制限に幸福ではないと考える価値観に理解を求めました。次の問題は、だからといって自殺は良くない、とする社会常識の打破です。
自殺が認められないため人は自分の寿命を決める事が出来ず、寝たきりになっても不治の病になっても、死ぬまで生き続けなければなりません。何故、自殺は良くない事なのか?。私はその根底に「人の見栄」が隠れている気がします。人と言うのは、自殺した本人でなく他の生きている人の事です。
現代日本の自殺の原因、1位は健康問題、2位は経済・生活問題となっていますが、疾病と貧困というのは自殺の普遍的な理由ではないかと思います。そして、これらは避けられるはずの理由と言えます。病気や障害で苦しんでいる人には適切な医療や介護サービス、困窮している人には適切な生活保護が提供されれば、その人は死ぬことはなかった。自殺するほど苦しんでいる人がいるのは、社会保障制度に欠陥がある証拠です。
現代社会では行政の劣悪になりますが、近代以前の社会では、これは地域共同体社会の劣悪さ、地域住人が冷淡で弱者を助けず切り捨てている証拠になります。また、宗教の問題もあります。宗教はたいてい他の宗教と覇権を争っており、「他の神は全部ウソ。うちの神様だけが唯一ホンモノ。こっちの宗教を信じた者だけが救われる」と言い張っていますので、信者から自殺者が出るのは「お前の神様は信者も救えず自殺見殺し〜ww」との批判を受ける原因になります。そこで、一部の宗教は「自殺すると天国に行けない」「それどころか地獄に落ちる」「遺族に葬式も上げさせない」といったプレッシャーをかけて自殺できないよう抑止に懸命です。
宗教の正当性を主張するために自殺者は出ない方がいい。だから自殺を反道徳的とレッテル貼りをしているのではないか?。地域共同体社会についても同じで、自殺者が出る事は残された者(地域社会)にとって不名誉だからこれを減らして「ウチは質のいい社会」と装いたいのではないか?。それはつまり、生きている人間の見栄の為の「自殺は良くない」価値観の強制ではないか、という推測です。
そんなもののために、自分の死期と言う重要事項の自己決定権を否定されるのはまっぴらです。
また、ここでは自殺はすべて非自発的、つまり本当は死にたくなんかないけど病気や貧困に苦しみ耐え切れず自殺に追い込まれたと、言う前提があります。だから、地域の互助なり行政の社会保障制度なり何か対応してこれを阻止する事が本人にとっても、社会(宗教)にとっても良い事なのだと。
昔はそうだったかもしれません。でも、今や今後もそうなのか?。「私はもう十分生きた。自分の人生は70年くらいで満足だ。孫の顔も見れたし経験したい人生のイベントはクリアした。この先に待つ寝たきりや痴呆と言ったリスクを自分は経験したくないし、苦しみたくない。だから元気なうちに死にたい」と考えるのは道徳に反する思想でしょうか?。ていうか、今の医学の進歩は中途半端で、(酷い言葉を使いますが)「治せないクセに死なせない」事例が多すぎる気がします。

step.3:良い自殺の立証責任

前節で、自殺は反道徳とする価値観には意外な裏面があるのではないかとし、その上で、良い自殺・自発的な自殺もあるのではないかと主張しました。
最後は良い自殺と悪い自殺の仕分けです。良い自殺は冷静な判断と個人の価値観に基づく死期の自己決定。悪い自殺は既に色々説明したように、必要な援助が受けられずに追い込まれる自殺です。例えば、貧しい家庭があって子供(といっても60代くらい)から「もうこれ以上、障害のあるお母さんの介護や面倒見るのムリ」などと言われて自殺に至るのは避ける必要があります。そこで、良い自殺だけを認める仕組みが必要で、それは自殺希望者に「私の自殺は悪い自殺ではない」証明をする責任を負わせることになると思います。
(1)資産・所得証明書を提出し、経済的に困窮していない事を証明する。(2)健康診断書を提出し、重い疾病や障害が無い事を証明する。(3)カウンセリング等を受けて、精神的な疾病や正常な判断力を欠く状況でない事を証明する。(4)申請をしてから執行までは1年以上の期間を置き、一時的な判断の誤りでないことを証明する。
こんなところでしょうか。もちろん、申請はいつでも撤回可能です。ここまですれば、自殺者が出ても社会が不名誉に思う必要もありません。
自発的に自殺する本人の付随的なメリットとして、死の準備ができる(脳梗塞などの予期できない突然死によって、相続等の準備ができないことがない)。現役の間に準備すべき老後の必要資金が明確になる(何円貯金しておけば死ぬまで足りるのかわからないというリスク、一年当たり何円貯金を切り崩していいのかわからないというリスクから解放される)。などもあります。

制度を何歳から認めるか…。個人的には60歳以上でいいんじゃないかと思うのですが、どうでしょう?。