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水色あひるblog

はてなダイアリー 「mizuiro_ahiruの日記」 から引っ越しました。

年末ジャンボ宝くじを買ってしまう経済学的理由

人は確率をどう認知しているのか。カーネマンとトヴェルスキーの確率ウェイト関数があります。

上図*1の点線が正しい確率、タテ軸で見る実線のカーブが人の心が認知する「歪んだ」確率です。小さい確率は過大評価され(赤矢印)、逆に大きい確率は過小評価される(青矢印)とし、宝くじ購入は典型的な赤矢印=微小確率の過大評価です。過大評価自体はそうだと思うのですが、納得できない点もあるのでノーベル経済学賞学者さんに一部逆らってみたいと思います(笑)。

20分の1未満の確率は存在しない

太古からヒトは経験を通じて確率を学んできました。例えば重要なのは狩猟の成功率。イノシシをしとめて帰ってこれる日もあれば徒労に終わる日もあります。そこで許される最低確率はどの程度でしょう。2、3回続けて無収穫なことは珍しくないでしょう。5回6回、ムラに残された干し肉のストックも僅かになってきます。10回、20回連続失敗?。集落は飢餓に直面し既に全滅しているかもしれません。全滅前に決断して移住したかもしれません。
食料を採取するor育てる、獲物に罠を仕掛ける、石器や金属器を作る。何にせよ、数十回挑戦しても成功しない行為や方法は「どうもマズイらしい」ので断念し、違う手を考えねばならないでしょう。
ヒトの寿命は40〜50年程度だったので、生涯を通じて2〜3回しか経験できない稀な事象の発生確率は「20年に一度」になります(生涯に一度しか経験しない事象は50年に一度になりますが、これは50年に一度なのか1000年に一度のことが今年起きたのかわかりません。確率として認識するには、経験が数回繰り返される必要があるでしょう)。
つまりヒトが体験し理解してきた確率は「数十分の一」、20分の1とか、せいぜい30分の1程度までではないでしょうか。数十年に一度の出来事を、人は260ヶ月に一度の出来事とか87000日に一度とは捉えません。理解できる確率の分母は二桁が限界だからでしょう。
確率ウェイト関数の左端(5%未満)と右端(95%超)は、本来は線がかすれて途切れている、と思います。

二つの確率

では宝くじのように当せん確率が5%を遥かに下回る事象に直面すると、人はそれをどう認識するのか?。
ノーベル経済学賞は「微少な確率は過大評価される」としましたが、私は「実は認識できない。できないものを無理やり脳内処理するから、理解可能な下限値『約20分の1(20分の1弱)』とみなすか『事実上ゼロ』とみなす、過大評価するか逆に過小評価するかどちらかになる」とし、どちらに振り分けるかは①経験②感情で決まると考えます。
そう思ったきっかけは、数年前に流行った新型インフルエンザです。この時、知り合いの女性が幼い我が子にワクチンを打つか否かで悩んでいました。ためらう理由はもちろん副反応のリスク。ところが聞くと、前年・前々年は「普通の」インフルエンザワクチンは注射している、のです。
去年までインフルエンザワクチンが怖くなかったのは、ワクチンにごくわずかながら副反応がありうる事を多分知らず、保育園の知り合いの子供たちも毎年みんな打っていて、別に重い副反応が出たなんて話も聞いたことないし「経験から判断して」リスクゼロになる。しかし新型は未知でありマスコミが副作用の話を煽りたてるのを聞くと「感情=恐怖」で、もしウチの子が当たったら…、となる。十万分の1が、運が悪いと当たりかねない率「20分の1弱」に過大に振り分けられるのです。*2
経験や身近な情報が過大評価されることは行動経済学でもよく言われています。アメリカで9.11テロの後、飛行機を怖がって自動車で遠距離移動する人が増えてむしろ事故死者が増加した。確率的には飛行機の方が安全なのに、という話がありました。これも、日常的に利用している自動車については「これまで事故ったことないし〜」経験が確率を過小評価させ、他方でテロ映像の恐怖が飛行機事故の確率を過大評価させたと。

年末ジャンボ宝くじ1等の当せん確率

なので宝くじについては、「願望」という感情が、100万分の1にすぎない確率*3を「ひょっとして当たるかも=20分の1弱」に振り分けさせているのだと思います。いくら「100万分の1」という理屈を人に指摘されても100万と言う極端な数字の実感はわかず、宝くじ売り場に並ぶ人達の脳内では「でもさぁ、なんか数十回くらい買えば当たりそうな気がしない?」幻想に侵されているのです。
また、末等300円(当せん確率10分の1)や6等3,000円(同100分の1)、5等10,000円(同1000分の1)の設定が巧妙です。「まったく当たらない」経験はさせない。リピーターには、時々、元を取る以上の当せんもすることを経験させる。これで20分の1幻想が消えないように仕組まれています。悪魔的だ!。
さらに、諸外国で射倖性が高い宝くじに庶民が熱狂するのも確率が比較できない為だと思います。1等賞金2億円(例えば当せん確率100万分の1)と、1等賞金50億円(同2500万分の1)の確率の違いは認知不可能で、脳内ではどちらも20分の1弱になります。確率が「同じ」と誤認されるので、賞金額が大きいほど得する気になってしまいます。

感情速報と経験続報

微少な確率を二つに、つまり可能性アリ(20分の1弱)と可能性ナシ(ゼロ)に二分してしまうのは、実は合理的だと思います。
未経験で「はっきりしないがリスクがあるかもしれない」ものは感情的にリスクを過大評価して、とりあえず避けておく。でも、経験的に安全とわかればゼロリスクに振り分ける。「何人かor何度か食べて中毒を起こさなかったキノコ」は食べていい。むしろ避け続けるのは貴重な食べられるものを無駄にすることになるのでもったいない。
未経験で「はっきりしないが可能性があるかもしれない」ものは可能性を過大評価して挑戦して良い。でも、20回試しても魚がとれない漁法にいつまでも夢を見続けてはいけない。だから経験的にダメとレッテルを貼って、また他の方法を考えよう。
感情速報を経験続報で上書きする移行システムは生存を図る上で役に立ってきたのだろうと。
でも、それがやっかいな事態を招くこともあります。「放射能の影響がガン罹患率を仮に上げるとしてもほんのわずか、生活習慣の影響未満で計測できないレベル」と言われても怖い。「影響があり得る」と感情が判断すれば、リスクは20分の1程度もあることになってしまいます。インフルエンザワクチンでさえ接種を躊躇う人が出るのですから、放射能を怖がるのは無理ありません。
津波対策も難しくなります。「この石碑より下に家を建てるべからず」と警告されても、その後30年地震がなければ、経験的に「無い」に分類されていく。特に世代が変われば過去の恐怖と言う感情もないので経験確率が優先されます。脳内でゼロリスクと判断されるのに漁場である海から離れて、田に使える平地から離れて暮らすのは本能的にもったいない。「記憶が薄れる」のは「その後の経験が蓄積され評価される」ことであり、通常はそれが正しいのです。
宝くじの末等理論に準ずれば、小さな被害があり続ければ経験的にリスクありに留められることになります。本物の被害は出せないので、Youtubeの映像を子孫に見せ続けることで口頭伝承より長く経験を伝えられるかもしれません。

おまけ

ちなみに私は、年末ジャンボ宝くじ当せんの確認は三が日が過ぎるまでしません。大晦日に冷酷な現実に直面するなんて耐えられません。三が日は、暖かな20分の1幻想の中で生きていくのです。
それではみなさん、どうか良いお年を。

*1:出所はコチラ

*2:一応念のために、これはインフルエンザワクチンの話であって、決してポリオの生ワクチンのリスクを放置して良いと言っているのではありません。

*3:今年は1等の確率を50万分の1に引き上げています。その代わり2等の当せん率を100万分の1に下げるなどして帳尻を合わせています。