水色あひるblog

はてなダイアリー 「mizuiro_ahiruの日記」 から引っ越しました。

バルス!とルームシェアの関係

昨日12月9日の夜に日本テレビで「天空の城ラピュタ」が放送され、物語のラスト、パズーとシータが滅びの呪文を唱えるシーンでtwitterが毎秒14,594tweetという世界記録を出したそうです。スゴイなぁ「バルス!」の威力は。

テレビでラピュタを観るのは不便です。DVDを借りれば好きな時に観れるのに、テレビだと局が決めた放送スケジュールに合わせて仕事やプライベートの予定を切り上げて帰宅し、テレビの前に座る必要があります。一時停止も巻き戻しもできず自由を少し諦めなければなりません。そのかわり、テレビで観ると「共通の体験」が出来ます。今夜ラピュタを観ているのはDVDを借りた私一人ではないからです。これまでテレビの共通体験は、翌日、学校や職場で「昨日ラピュタ観た?」あるいは「あのドラマ・バラエティ・サッカー日本代表の試合、観た?」と言って会話する事でしたが、ネットの発達でtwitter2chの実況スレを使ってリアルタイムに会話する事が出来るようになりました。みんなで毎秒14,594人もの人が「バルス!」とつぶやく事が出来るようになりました。
テレビのラピュタは不自由だけれど寂しくないのです。

「不自由だけれど寂しくない」は、久保田裕之氏が「他人と暮らす若者たち」という著作の中でルームシェアの特徴を表現した言葉だったように思います。手元に本が無いので、うろ憶えですけど。(一応、ここで言うルームシェアとは、部屋数の多いマンションなり家を借りて二人以上複数の人で共同生活する事です。)なぜバルス祭りとルームシェアに「不自由だけれど寂しくない」という共通項があるのか、考えてみました。
若者の一人暮らしは本来「夏休み」のような物のはずでした。実家で親兄弟と暮らす子供の「一学期」と、自身が結婚し子供を作って家庭を持つ大人の「二学期」の間。大学・専門学校や若年労働の期間限定だから自由が貴重だったのです。でも、90年代以降様相が変わって来ました。低所得化と不安定な雇用が初婚年齢の上昇に拍車をかけ、結婚しないorできない比率も増えてきました。長過ぎる(下手すると終わらない)夏休みは自由だけれど寂しい。そろそろクラスメートと会って話もしたい。ルームシェアという新しい選択は、時代が生んだ合理的な解である気がします。

かつての日本には地縁と言う人間関係が強くありました。今は嫌われていますが、これにも合理性があったと思います。
庶民がみんな百姓だった頃、同じ集落に住む人は同じ気候条件の下で同じような土質の田畑を持ち同じような作物を育てていました。田植えや収穫期には互いに協力もしますし、農業用水の配分を巡っては真剣な調整も必要。長雨や干ばつの苦しみも、豊作の喜びもみな一緒です。大きな家族のような運命共同体だから、共同体をスムーズに運営する代償として互いのプライバシーに介入したり生活を束縛する事にも意味があった訳です。
しかし時代が変わり、ある人は高校を出てどこかの工場に勤め、隣の家の人は大学まで行ってどこかの会社に勤める。運命がバラバラなのに相変わらずプライバシーを覗き込むような干渉と束縛の因習が残っていると迷惑なだけです。そこで子供たちは田舎を嫌がり都会に出ていきます。都会では核家族を作って小さな血縁を持ちつつ、夫は終身雇用の企業で首までどっぷり過剰なほどの「社縁」に浸かり、妻は同じ年頃の子どもを持つ母親同士のコミュニティに参加する。それが戦後の高度成長期からバブル期までの「縁」でした。
今、終身雇用の社縁にも参加できず結婚もしない場合、人は孤独になります。いつまでも実家に居座る「パラサイトシングル」は、寄生しているだけでなく「実家を出たら私には何も縁が無い」という悲鳴かもしれません。

そこで、一部の人はルームシェアという縁を作ることにしました。子供は親を選べない血縁や、同じ集落に住む人を選べない地縁とは違う、選ぶ縁です。だいたい同じ年齢層で、近い所得階層で、価値観やライフスタイルが似ていて、社交性の程度が外れていない(毎晩リビングに集まって騒ぐシェアか、あんまり互いに干渉しないシェアか)人と。
一人暮らしの自由は失われ、掃除や料理の当番をしなければいけなかったり風呂やトイレを共用するのは不便です。日々会話するには互いのプライバシーもそれなりに開示しなければいけないでしょう。そのかわり、悩みを聞いてもらったり風邪ひいたら薬買ってきてもらったり、苦楽を共にした寂しくない生活ができます。
一人で暮らしているとtwitterに「バルス!」と書きこむほかありませんが、四人でシェア生活していれば、リビングでみんなでビール飲みながらテレビに向かって「バルス!」と声を合わせて叫んでみる事もできるでしょう。

毎秒14,594tweetという世界に前例がない大量の「バルス!」のつぶやきは、わざわざ不便なテレビでラピュタを観て、「今、ついにあのシーンだよ!」を誰かと共有したい人が、もしかしたら少し寂しいと感じている人が、日本にはたくさんいるのかもしれないなぁと、そんなことを考えたりしました。